「僕」が求めていた「自分」その帰結。そして使命。

すごく勘が働いていて調子が良い。やることなすことはずれがない。失敗も成功もまわりまわって自分の求めていた結果に刻々と近づく。いい緊張と弛緩を感じている。


自分探し、にもひと段落ついたっぽいのですこしだけ偉大な人っぽくまとめる。
というより、研究結果の報告的な感じです。あと、日記要素もあります。
もし、絶賛自分探し中な人は参考にしていただけると幸いです。


自分が自分の殻の中を歩き回って、数年間の探究で得たものはこちらです。








たぶん、これまでやってきたことがある種の直感を生む力を育てたらしい。
論理的な考えの蓄積
感覚の鋭敏化
独自の方法ではあるが、直感を出すための条件は満たしたつもりだ。


羽生さんの「直感力」から学んだ論理の蓄積および感覚の鋭敏化という表現をもうすこし噛み砕いていく。


まず、論理的な考えの蓄積とはある種、1つの問題に対する回答のようなものだ。
1+1=は2である。それは論理的に考えれば物体の数や概念としての法則をもってすれば造作もないことだ。しかし、掛け算、割り算、因数分解、とレベルが上がっていくにつれて難しくなる。それはその回答を導くために必要な知識だったり、経験だったり、慣れがないと理解するのが難しくなるからで、足し算を知らない子供がそういったものを解ける訳もない。


しかし、そういったものを一瞬でまったくの間違いなく100%あった答えを出せる技法が存在する。


それは直感。すなわち、論理的な考えの蓄積が関係してくる。まず、私たちは1分前に解いた問題の計算、論理、答えを一部の狂いもなく答えられるだろう。なぜなら、記憶としても論理にしても時間が真新しい分、人は自分の答えに絶対の信頼を置くからだ。しかし、問題を忘れたころにこの問題を一瞬で解けるかというとその確率はぐっと下がる。難しい問題であるほどにそれはおおきくなっていくからこれではまるで意味のないように思える。


だが、それは単純にその分野においての経験が足りないせいもあるし、人というのは忘れなければ新しい発見はできない。だが、問題を解いたときの達成感、優越感、ある種の気づきに似た万能感、などは忘れ難い。なぜなら、身体の感覚というものは情報がとてもシンプルであるがゆえに忘れづらい。いじめられっこはいじめられたときの閉塞感、恐怖、絶望感をずっと覚えている。たとえ、記憶が褪せて見えなくなろうともそういう場面を見た時に無意識のうちに体が汗ばみ呼吸が荒くなり頭痛がしてくる。そんな、身体の状態を見たことはないだろうか。


それは確かに嫌な体験であったり、楽しい体験もあってそれらは個人の主観だから感覚の広義的な分別は難しい。しかし、人生の中でずっと同じ仕事に携わる機会がまともな人間ならばあるだろう。または、昔から続けてきたこと、趣味、思考、妄想、なんでもいいがそれらの「作業」はその人独自の「思考」を作る。まずなにかしら自分がやらざるを得ない作業に没頭し、その作業を進めるため選択した行動に応じて論理的帰結(学習)を出すことで作業の思考回路が出来上がっていく。さらに、作業の慣れからどのように問題を解決すればいいのか目星がつき、結果としてそういった選択を判別する感覚が研ぎ澄まされてくる。それをある程度の期間、ある一定の練度まで高められると不思議な現象が起こり始める。


なんというか、次に起こる出来事をなんとなくわかるようになったり、嫌なことが起こる前触れを予知したり、自分にとって必要な行いを自然に行ったり、、、、。そういった経験が生きている中で何度かあったと思う。


その時ほど、直感が働いているのだ。論理的な考えの蓄積、そして感覚の鋭敏化。それらは偶発的にも起こるし、自発的に起こすことも可能だ。


ここからメインになるのは直感力の話であるがさらに本質について説明をしたい。
自分は直感を自発的に起こすことをさらに究めつづけ、次のステップまで飛躍した。
それは直感と表層意識をつなぎ、人間が生まれながらに持つ生来の人格を呼び覚ますための大事なファクターである「運」についてだ。


運というものは古来から人間の心にある概念だ。予知、天命、シンクロシニティ、などとも関係することもある。とくに追い込まれたり、肝心な場面で大きく情勢が変わる時ほどなにか強い力のうねりを感じないだろうか。自分も運が良かった、では済まないぐらい奇妙な現象をたくさん感じてきた。


たとえば、お金に困窮していた時に期限が明日の催促があり、もうだめだと思ってあきらめたそのすぐ後、たまたま母が部屋の掃除をし始めて要らないCDなどをくれた。それを中古ショップで売ったところ、レアなものがあったらしくかなりのお金になった。しかも、そのお金は現状払わなければならない催促を満たすのに十分すぎるほどのお金だった。


これはつい最近あった話なので本当のことだ。これ以外にもいくつかある。しかし、あまり覚えていない。申し訳ないがうろおぼえの虚偽を記したくないので書かない。


だが、前述のとおり、感覚というものはずっと覚えているもので、その不思議な現象を目の当たりにした事実は自分がここにいること以外に証明のしようがないのだが、信じてもらいたい。自分は半年前までは碌に人と会話もできない孤独な少年だった。しかし、いまではこんなことを自信を持って言える男になった。たった数カ月でもこのように直感を操ることができるのだ。それにはつらいこと、嫌なこと、うれしいこと、などの自分自身の持ちうる感情全てに論理的な答えと適切な対処を自身のために設ける必要がある。自分の場合、そうだっただけだが。自分はそうしたおかげで直感と意識をうまくつなげることに成功し、基本的な人格が仕上がってきた段階まで来た。これは自分にとってはマラソンを完走したに等しい出来事で、そこに他者の評価も目に見える報酬もない。しかし、自分はここまでやりきったんだから悔いもないし非常に満足している。


自分自身にしかわからないことだらけの文章だがすこしは胸のうちに思い当たる部分があっただろうか。これからも直感、そしてその先の集合意識などについても探究を続けていくつもりだ。もちろん、現実での収入や人間関係の問題も依然ついてまわるがそんなものに小突かれて続けても面白いことはおこらない。近々、対処することにする。


心は答えを知っている、この言葉はいつしか自分の生き方を表す言葉になった。自分にしかやれないことで世間をアッと言わせてやる。タダじゃ起きない人間になりたい。


これからも楽しく面白い人生を作っていく。明日死んでも悔いがないように生きよう。


はやおはもう卒業します。ブログを続けるかはわからないので放置するしかありませんが機会があればまた覗いてください。ぼくはいいねしてくれた方のブログも見させてもらっています。


見て応援してくれた方々、いままでありがとうございました。楽しかったです!