日を跨いだから新しい投稿。
沈黙は金だと言ったが、本当に役立つことわざ。
勝手に相手が誤解してくれちゃう上に支援までしてくれる。
余計なことはしゃべらないのが一番良い。
それはそうと、眠れない夜になった。いや、正確に言えばこれから寝れるのかもわからない。嵐の夜だ。風がゴーゴーとうなり、大地を滑っている。人はただ堅く扉を閉ざしてすぎるのを待つだけ。これほど居心地の良い夜はない。多少の物音も雨と風の音で遮られるだけだ。パソコンのタイピング音なんて聞こえる訳もない。
こう、ひたすらにただパソコンに向かうのも悪くない。自分が周りの人に心を閉ざしているときほど自分の中の考えが整頓される時間はない。しかも、この豪雨がなぜか心地いい。
誰もこの豪雨には逆らえまい。文句は言えまい。ただ、布団の中で耐え忍んでいる。
ぼくはどうだ。こんな雨でも深夜でも関係なく物思いにふけられる。なんて贅沢な行為だろう。普段はスズメのようにうるさい人たちもいない。すばらしい。
けども、ぼくは夜更かしとか暴飲暴食、性の乱れとかの不健康状態にとても敏感だからじっくりと孤独を楽しむには余裕がなさすぎる。今日だけの特別な時間なのだ。
人と意識して話さないとまるで言葉に気持ちが乗らなくなるから不思議だ。
どこまでいってもまるで遠慮というものが消える。言葉をかけるというより、言葉を入力して発している、そんな機械的な印象を受ける。周りの出来事さえ、自分はそのつながりを眺めているのにすぎず、ただただ人が動く、ものが無くなる、ものが増える・・・。そんな単純な世界に見えてくる。自閉症とまでは言わないけど、心を閉ざし周りと接しているとなにか人間らしい感情が消えてしまうんだなあと思った。僕の場合は不信感と諦め。こうするほうが自分の都合どおりにことを進められる。
僕は本来おしゃべりな性質ではないのだろう。よく一緒にいる母親のテンポにつられて次第に癖になっただけで、おしゃべりはあまり好きじゃない。
どちらかというと、赤ん坊のように好きな時に喋り、どうでもいいことは受け流すそんな自由気ままで自然体のコミュニケーションが僕には合っている。
心までは閉ざしていないのかもしれない。それだったらブログに赤裸々に自分の心のうちを開示するなんて恥ずかしいマネできる訳がない。
なんだろうな。よくわからない。
こういうはなしかたも今日が初めてだがなぜかやけにしっくりくる。
もしかしたら、いままで抑圧されていた本当の脳の使い方が沈黙をした拍子に覚醒したのだろうか。だとしたら、いままで喋っていた僕は偽物か。それが発する言葉に笑っていた者たちはいったいなんなのだろうか。
いや、深く考えても答えは出なそうだ。痛みの伴う思考ははっきりいって意味がない。
思考とは加熱するようでいて丁度の良い温度で湯船につかりながら歌を歌うような、心地よさがないと直観も思考も冴えないものだと思う。
怒りながら考えたり、悲しみながら考えたり、苦しみながら考えたり、そんな不自然な思考から生み出されるアイデアはまるで役に立たない。経験してきてわかった。
僕が偉そうに言うのも、そういうことで生きてきた人間は各局面で感情に振り回されていることが多い。その人が悪いんじゃなくて悪いように見せている思考方法が良くない。
瞬間湯沸かし器とか、老害だとか、精神疾患だとか、そういうレッテルを張られてしまう大人は痛みを伴う思考が癖になっているからよくない自分を演出してしまう原因になっている。
そして、そういう人は自分のそういう面に決して気づくことができないから、天罰を受けることになるわけです。
大人しい。おとな。親や先生とかに大人になりなさい。大人しくしなさい、と教育されるのが日本の教育でした。
自分を痛めつけてまでがちがちに固めた不自然な思考で大人しくなっているひとはたくさんいるんだな、と思う。
そういう人が就職していじめられたあげく、仕事の責任で死んでしまう。僕と変わらない同世代を見ていて思う。死んでしまっては元も子もない。そんな危機感すらもそいでしまう教育は僕が生きているうちに見直されるべきだと思う。
ごめんなさい。長くなりました。明日から更新するか明日の自分にまかせます。
棚に置いて言いますが、みなさんも身体のいうことを最優先に生きましょう。ぷー太郎は良くても不健康で大人しい人になってはいけませんよ。
ではおやすみなさい。
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