「計画性」に溺れたい 前編

皆様おはようございます。今日は晴れているので散歩でもしようかなと考えております。
今日も一日いい日になるといいですね。


と、無難な書き出しもたまにはいいなあ。どうも、ダリです。
本当に春らしくなりましたね。生き物たちがお祭り状態です。


特に書きたいことは見当たらなかったのですが、なんとなくパソコンに向かいたかったからブログを更新することにしました。今日もだらだらと書いていきます。それでは。
(一人称 僕=素、私=ダリ)



「計画性」とは本当に必要なものなのだろうか?


わたしには昨日まで計画を立てることをせずになんとか生きていた。それは単に自分の経験上、計画という言葉が良いものに見えなかったせいもあるし、予定通りに行動するのがめんどくさい生粋の怠惰を身に背負っていたせいもある。
まあ、そのことについてそんなにネックに思っていなかったおかげか、無事にニートの仲間入りをし自堕落で自由な日々を過ごしてきた。さすがに働かないとまずいなと気づいた時にはもう1年もたっていた。


本格的にやべーな、と思って毎日をきりきりと引き絞るように考えては捨て考えては捨て自問自答していたがどう頑張っても計画性の権化である仕事を肯定的にとらえる自分が誕生することはなかった。


仕事をしただけで全身の気が鋭い痛みとともに勢いよく抜けていく。こんなことを話しても誰も信じてくれないだろう。
でも本当に昔働いていたときは穴が開いた。そこからやる気はもちろん、感受性、良かった思い出、努力の結晶、その他の私の「元」が噴出しては失われた。


だから、今はその自分自身を取り返している最中であると自覚している。わかってもらわなくても大丈夫。ぼくはこの現象を乗り越えてのほほんと復活し、周りの人を安心させてみせる。


この噴出が起こってからというもの、心と体が仕事に対して強い拒絶反応を示すようになった。風船に穴が開いていたように普段はセロハンで止めてあるところの古傷が裂けていき、そこから私そのものがどろどろとながれだしてしまう。そうなれば道端だろうとうずくまるほかない。


嫌だ!と思っても突きつけられるその働かなくてはいけないという強迫から逃げることが何度もあった。1年間ただニートをしていたわけじゃない。何度も挑戦した。けどそのたびに痛みがあった。計画通りに仕事なんか進めなかった。


当たり前のことができない、本当にそれに触れることもできない。これがどれだけの孤独をもたらすのかそして人生をこれほど激変させるのかと思うと言いようがない。


ぼくは思考の無限回廊を行ったり来たりするから「働く」について関わることも億劫になってきた。本格的なニート氷河期の到来も覚悟した。


その自分デフレーションを断ち切ったのは、新しい先生たちとの出会いであった。
先生はふだん本であるが時としてぼくに読んでいいよと言ってくれるのだ。だからぼくは授業を受ける気持ちで読書をする。すると新しいひらめきや疑問を的確に教えてくれる。


先生は今を打開するのに必要なものをわかりやすくかつ正確に選びぼくに教えてくれる。ぼくはそれを手掛かりに学習に励む。日々の観察や新しく湧いた答えをノートに書き記して頭の中を整理させる。いろんな先生がぼくの満たされない感情に火を注いでくれたしそれが毎日の空白を埋めてくれた。本当にそれは感謝しています。


要は読書がぼくにとって癒しというか希望になった。実際に救われたんだと思っている。
読書嫌いの人がいたら安心してほしい。いずれ時が来ればそれは勘違いだったと分かる。


そして、長きにわたりぼくを苦しめ続けた計画性に対するアレルギーもどうやら収束する兆しが見えてきた。





ぼくは将来、作曲と絵描きを両立させて芸術活動を始める。ある程度勝算はある。
いや、なにがなんでもぼくはアーティストになると決めている。


そのために作品の制作ではどうしても計画性ははずせない。そういう熱い気持ちで普段の仕事を練習相手としてとらえていたが、どうも相手がそういう態度では崩せない強敵だった。ぼくはずたぼろにやられてしまった。


剣を鍛えなおしてもう一度挑もうとバイトに応募した。たぶん来週に結果が来る。
相手は高校の時に一度戦った相手であるから多少はやりやすいだろう。さて、明日には通知が来るのだろう。そう思っていた。


しかし、突然右胸上部に鋭い痛みが!ここであの風船に穴が開いてしまった。


ぼくはへたりこみそうになった。頭が混乱し体がこわばる。
なぜいまここでなるんだろう。よくわからないままなんとかもちこたえたのは小さな穴だったからだろうか?


帰路をたどりながらぼくはうなだれていただろう。本当に突然すぎることだったから。


その数時間後、ある答えにたどり着いている自分がいたのはまた別の機会に書くとする。





ばーーっと書いて長くなってしまい申し訳ない。後篇に続く。

3DCGデザインに興味があるがなにぶん「落ちぶれてすまん」

タイトルの「落ちぶれてすまん」とは「びんぼっちゃま」が言った貧乏名台詞である。
ぼくの好きな漫画であるおぼっちゃまくんに出てくるキャラでしてすごくおもしろいのでぜひ調べてみてください。




今日は駅の方へ出かけてその帰り道にバス代を計算し忘れたおかげで2時間歩くことになった。春の穏やかな気候とはしゃぐ人たちを見てすこし晴れやかな気分になったと同時に足が砕けたので午後はずっと寝るしかなかった。肝心の家の手伝いとか自分への約束とかそういうものをぜんぶぶった切って寝てしまった。さきほど、怒鳴られた。


しょうがないといえばしょうがない。ぼくはしょうがないと思い込もう。
まあ、そんなことは別に書きたかったわけじゃないんだが。まあ。


気分屋のくせにロジカルとか律動とかそういう純粋に動くものに対してすごく興味を抱くのはなぜだろうか。別に特別に頭がいいわけでもないんだが、なにか気になるとすごく自分の中の研究者的な側面が顔を出すからそれが自然なんだと思っている。


結局は自分の力でどうにもならない本能のようなものだと思っているからぼくは自分自身にざまみろといってやりたい。どうだ、ぼくにも自分らしさがあっただろう。と。


まあ、こんなことを書きたいわけじゃないんだけど!!本題に入るための潤滑液的話題がそこで完結していたら意味がないじゃないか!


でも、いきなり主題から話すのもとても下品だと思うからできれば避けたい行為。しかしまあ、こういうときは考えても一滴のヒントも出ないからそれはやめてね、なにか別のことを思いながら指の動きをじっくりと見つつ、胸にある指向性の感覚で書くのがいちばんいいと分かっている。


そうだ、とにかく怒鳴られても失望されても驚かれてもあきれられてもともかくは、ぼくはその感覚に従えばいいんだなと思った。他人の評価が何でえ。


で、話は変わるがそういう感じのことがあったわけなんだけど、ぼくはいちいちたかがカラオケに行くのに何十分もバスに乗ってほんの数時間歌ってそしてまた家に帰るときにバス代がなくてとぼとぼと疲れるまで歩いて寝ちゃうし、忘れるし、へにょへにょだし。もー、いい加減にしてほしいよ。前の自分だったらがんじがらめだ、そう思った。


でも、もうニートじゃないんだから人のために何かする理由がもうあるんだし、とりあえずはそういうもんはなだめておいて自分の可能性のあるものをぜひ見たいと思い、コツコツとネットサーフィンをしていました。


3DCGデザインって?ぼくのスワイプしていた指が止まりました。あるイラストレーターのブログでした。それもとびきり絵のうまいという感じでもないが、なにか自分の胸中に迫る温かみとドキドキを感じたので飛び込んでみました。
結果はビンゴでした。ぼくのいまの状況から言ってああ、これだなと思える直感をそのブログからビンビンに感じ取ることができて、とても励起された気分で書いています。


まず、初めに言うとすごく僕と考え方が似ていました。同じく働くことに対してすごく独特な考え方を持っていたり仕事がはっきりしないのを理由にブログやったりよくわからないネタで滑っていたりとか親近感を覚えました。まあ、あそこまで滑らないけど。


まあ、内容はもともと全く別のことについて打ち込んでいた学生が恋愛的失敗から傷心を癒すために絵を始めたところすごくはまってしまった。そんなこんなで画家を目指そうと藝大に入ろうとしたが途中で3DCGデザインという技法に出会いいまでは名だたる企業で下剋上就職をしたという、人です。その人は。


まず、そのよくわからない動機付けに最初は馬鹿じゃねえのと思いました。けど、思い返せば2年半前の自分も失恋してから絵に執着するようになったなあと思いだしまして恋とはいったいなんだろうという疑問を気になりながらも小脇に抱えてさらにその人のブログを見続けました。


いやあ、こういうのもありなんだなと思った。やみくもに大した目標もなく絵を描いてはカタルシスに浸り、褒めちぎられることを夢見ていましたが、なるほど、わたしが選んだ道にも社会的な居場所を求められるんだなとすごい安心してしまった。


絵をかくときは孤独でした。何をするにも一人で完結するものであるからして構想などもあまり考えずにだらだらと書き進めるのが常です。やはり、そこには自分以外の人の存在が不可欠なんだなと改めて絵をかくということに対して考え方が変わった。


そこを自分の今とどうちゃんぷるしていくかは気持ちに聞くとして、とにかく、ぼくがよくわからなかったデッサンの必要性とか絵描きの意義とかそういう一見考えても無駄に思えることすらも解決したのでより絵を愛していくことができそうだ。


ながながとまじめに話してしまった。まあ、そんな感じで自分のやってきたことは本来の自分を探す旅にも同期しているときがあって、それがどんなことでも運命は生きることに肯定的なものには相応の道を歩ませる自然の摂理があって、その先には言葉なくただただ自分が体感する世界があるだけでその深度も人とは一味違ったりするから違いも出るんだよな。んでも、それは無駄じゃないって誰かに僕は伝えたい。がんばれと。


あー、手塚治虫みたいにはなれないけどその足のつま先くらいにはなりたいなあ。
ということで今日の日記は終わります。敬語が多めですね。はい。
ありがとうございました。

再出発したからブログも再開しよう。となったわけ。

最近はめっきり深刻な状態に陥ることも減った。いや、問題そのもののレベルはいくらか前の自分に課せられていたものとほぼ同じであるから、ぼくがそれらを十分に許容できるシステムを自らの中から発掘したといったほうがいいな。


信頼できる大人たちに今再び感謝したい。


ダリ先生、丸尾先生、桜井先生、ヒカ先生、羽生先生、宮崎先生、平沢先生、西寺先生、ありがとうございました。


というわけで、はやおからダリに変身しました。わたしはネットでは大暴れできるから姿かたちも変形させていいということだ。こうして、つぶしてきたブログは数知れず。これもまた舞台崩しが起きてしまうのか。それはやだなあ。


肝心の内容なんですが、独り言兼日記のスタイルは変わらないのでとても退屈で意味不明かなと思いますが、どうぞ自由に鑑賞してください。


たぶん、今回は面白くないと思うので内容の面白さについては次回に持越しします。ごめんなさい。




まだまだだということだな。ぼくは足りないものが十分にあるんだ。頑張りながら流れよう。


最近、「矛盾言葉遊び」にはまってきた上の文章にも2つほど忍ばしてある。なんというか、世の中は1+1=1があり得るんだよな。捉え方と柔軟性によるけど。だから、あんまり威張れることじゃない。けど、隠すものでもない。なもんで、言葉に忍ばせることによって大きくゆるやかにその気持ちを再確認できるから重宝している。


ぼくはまだ、虫にも、植物にも、格段にすごいやつらからまったくなにも教わってもらってないから気とか運命とか初心者になるための試練を受けるための抽選用紙を書いただけの存在であるからしてあんまりにも身の程知らずなんだよな。その洗礼をこれから受けるかもしれないなあ。もうこういう予感っていうのははずれようもないし、逃げるだけ損をするから、しっかりそこへ向かい自分にできることをやっていきたい。結構怖がっているけど。


自分が調子に乗り尊大になりすぎないように努力しているがなかなかどうにも誇りとおごりの違いもよくわかってないからなあ。気にするだけこんがらがるんだからやめておこう。


で、今回なぜ書こうと思ったのかというとやっと、念願の「風水」の世界へのいざないが起こったのでぼくもスピリチュアル界隈にとうとう顔を突っ込んだみたいである。いざないって書いてあるけど要するにシンクロニシティが起こったのでぼくは進む道をまた見つけることができました。



そもそも、風水とはなんだろうとウィキで調べたところ、気の流れに関係する学問のようなおまじないのような熱心さとスナック感覚が混ざり合った百貨店のような魅力が感じられた。


百貨店なのだから当然人口も多く、世間ではかなり認知されているものらしい。ぼくは熱心な方に入るスナック愛食者だからどっちの方にも共感できたし、その明らかな違いも一目瞭然にわかってしまった。まず、本当の風水、ファッションの風水、があるなあと思った。推測だがおそらくはだいたいあっていることだと思うから書いていく。


本当の風水は気を操り自らに流れさすことを主軸に世の中の真理に触れんとせん熱意に燃える人たちが居る。その人たちこそ内より外に働きかける創造的な人種だと思う。こちらの風水は学問だということだ。


で、ファッション風水はひたすらに知識と前例だけで生きてきたような少し浅すぎる人が使うごまかしだと思う。特に自ら感じることのない気を利己的に集めようなどという冷蔵庫の冷気を暑いからだと言って解き放つぐらい無責任で浅はかな行動だと思う。
悪くはない。実際それで運が良くなって人生が一歩進めばとてもよいことじゃないか!
自分は悪く思うというよりその人間性のおおざっぱな造りにびっくりしている。
それでいいんかい!あんたは!って突っ込みたくなる。まあ、人それぞれですしぼくはファッション感覚では使わないかなあと思うな。
大勢の人間はここまでで風水の概要だけを知りすぎていく。むしろ、それがほとんどなのはしょうがないと思う。


まあ、ぼくもそうやって見下していてはいけないと思うけどさ。だって、自分が真剣にやっていて片や運とやらを集めるために玄関に黄色い物をとりあえず置いたりしている。慎重か抜本的か・・。うーむ、総合的には良きかな。



まあ、そんな感じで学問か趣味で更に切り分けることもできそうだというちゃらんぽらんな観測を終えておこう。


で、ぼくは当然のごとく学問としての風水に興味津々なわけで運気とはどういう概念で隣国では扱われているのかを知るいい機会が巡ってきたと少し踊りを披露してみたい気分でとりあえず集積した情報をアウトプットせんとしている。ぼくの我流の期の情報をもってしてどれだけ「復習」し、いかに「会得」しようかよだれが止まらない状況にある。


しかし、うれしい情報の追加とは裏腹にぼくの仕事は最高に面倒なことになるという予測から胃腸がきりきりまいである。いてえ。いてえ。だが、うれしい。。いてえ。。
こればっかりは今はどうしようもないしまだ苦しむのかと思うと絶望の崖に足をかけたくなる心持であるが、まだ耐えられそうなのでほっとく。


考えすぎても答えが出ないなら感覚に従えばええやない。これがぼくの答えだ。


風水だか何だか知らんが一つの答えを得るまではずーっと関わっているつもり。ぼくの問題の解決方法はそいつとどうやったら戦友になれるのか。その一つに限る。
人でもモノでもそいつに興味を持ってしまった以上、直面する課題として最初の精神的接触はどちらかが傷つくことから始まる。そこから時間をかけてお互いのブラックゾーンを埋めていき、、最後には誰も邪魔させない2人だけの愛の園ができるっちゅーわけや。ただし、性的な対象としてみるかは別の話であるけど。



まあ、そんなところでしょうがない事実が山ほどある。が、1つとして変化しない山はない。海でもいいけど。それに大きさは関係ない。どれだけ、機微を見られるかそして答えを出せるかがポイントであって、むやみに突っ込めば死は免れない。
なので、絶対無比の本能的感覚を「とりあえず」は信じている。まあ、これだからまだ募集用紙とか呼称しなきゃいかんのだけど!ま、それもしょーがないことに入っているからなあ。OMG.


オチも思いつかないので終わり!意味わからんけど続きそう。読みづらくてごめん!それではまた。