3DCGデザインに興味があるがなにぶん「落ちぶれてすまん」

タイトルの「落ちぶれてすまん」とは「びんぼっちゃま」が言った貧乏名台詞である。
ぼくの好きな漫画であるおぼっちゃまくんに出てくるキャラでしてすごくおもしろいのでぜひ調べてみてください。




今日は駅の方へ出かけてその帰り道にバス代を計算し忘れたおかげで2時間歩くことになった。春の穏やかな気候とはしゃぐ人たちを見てすこし晴れやかな気分になったと同時に足が砕けたので午後はずっと寝るしかなかった。肝心の家の手伝いとか自分への約束とかそういうものをぜんぶぶった切って寝てしまった。さきほど、怒鳴られた。


しょうがないといえばしょうがない。ぼくはしょうがないと思い込もう。
まあ、そんなことは別に書きたかったわけじゃないんだが。まあ。


気分屋のくせにロジカルとか律動とかそういう純粋に動くものに対してすごく興味を抱くのはなぜだろうか。別に特別に頭がいいわけでもないんだが、なにか気になるとすごく自分の中の研究者的な側面が顔を出すからそれが自然なんだと思っている。


結局は自分の力でどうにもならない本能のようなものだと思っているからぼくは自分自身にざまみろといってやりたい。どうだ、ぼくにも自分らしさがあっただろう。と。


まあ、こんなことを書きたいわけじゃないんだけど!!本題に入るための潤滑液的話題がそこで完結していたら意味がないじゃないか!


でも、いきなり主題から話すのもとても下品だと思うからできれば避けたい行為。しかしまあ、こういうときは考えても一滴のヒントも出ないからそれはやめてね、なにか別のことを思いながら指の動きをじっくりと見つつ、胸にある指向性の感覚で書くのがいちばんいいと分かっている。


そうだ、とにかく怒鳴られても失望されても驚かれてもあきれられてもともかくは、ぼくはその感覚に従えばいいんだなと思った。他人の評価が何でえ。


で、話は変わるがそういう感じのことがあったわけなんだけど、ぼくはいちいちたかがカラオケに行くのに何十分もバスに乗ってほんの数時間歌ってそしてまた家に帰るときにバス代がなくてとぼとぼと疲れるまで歩いて寝ちゃうし、忘れるし、へにょへにょだし。もー、いい加減にしてほしいよ。前の自分だったらがんじがらめだ、そう思った。


でも、もうニートじゃないんだから人のために何かする理由がもうあるんだし、とりあえずはそういうもんはなだめておいて自分の可能性のあるものをぜひ見たいと思い、コツコツとネットサーフィンをしていました。


3DCGデザインって?ぼくのスワイプしていた指が止まりました。あるイラストレーターのブログでした。それもとびきり絵のうまいという感じでもないが、なにか自分の胸中に迫る温かみとドキドキを感じたので飛び込んでみました。
結果はビンゴでした。ぼくのいまの状況から言ってああ、これだなと思える直感をそのブログからビンビンに感じ取ることができて、とても励起された気分で書いています。


まず、初めに言うとすごく僕と考え方が似ていました。同じく働くことに対してすごく独特な考え方を持っていたり仕事がはっきりしないのを理由にブログやったりよくわからないネタで滑っていたりとか親近感を覚えました。まあ、あそこまで滑らないけど。


まあ、内容はもともと全く別のことについて打ち込んでいた学生が恋愛的失敗から傷心を癒すために絵を始めたところすごくはまってしまった。そんなこんなで画家を目指そうと藝大に入ろうとしたが途中で3DCGデザインという技法に出会いいまでは名だたる企業で下剋上就職をしたという、人です。その人は。


まず、そのよくわからない動機付けに最初は馬鹿じゃねえのと思いました。けど、思い返せば2年半前の自分も失恋してから絵に執着するようになったなあと思いだしまして恋とはいったいなんだろうという疑問を気になりながらも小脇に抱えてさらにその人のブログを見続けました。


いやあ、こういうのもありなんだなと思った。やみくもに大した目標もなく絵を描いてはカタルシスに浸り、褒めちぎられることを夢見ていましたが、なるほど、わたしが選んだ道にも社会的な居場所を求められるんだなとすごい安心してしまった。


絵をかくときは孤独でした。何をするにも一人で完結するものであるからして構想などもあまり考えずにだらだらと書き進めるのが常です。やはり、そこには自分以外の人の存在が不可欠なんだなと改めて絵をかくということに対して考え方が変わった。


そこを自分の今とどうちゃんぷるしていくかは気持ちに聞くとして、とにかく、ぼくがよくわからなかったデッサンの必要性とか絵描きの意義とかそういう一見考えても無駄に思えることすらも解決したのでより絵を愛していくことができそうだ。


ながながとまじめに話してしまった。まあ、そんな感じで自分のやってきたことは本来の自分を探す旅にも同期しているときがあって、それがどんなことでも運命は生きることに肯定的なものには相応の道を歩ませる自然の摂理があって、その先には言葉なくただただ自分が体感する世界があるだけでその深度も人とは一味違ったりするから違いも出るんだよな。んでも、それは無駄じゃないって誰かに僕は伝えたい。がんばれと。


あー、手塚治虫みたいにはなれないけどその足のつま先くらいにはなりたいなあ。
ということで今日の日記は終わります。敬語が多めですね。はい。
ありがとうございました。