集中力を高めるなんてとんでもない

羽生善治さんの直観力を読んでみた。そこで、集中力を高めるための方法が載っていたので試してみることにした。手っ取り早いな、と思ったのがある一つのテーマについて議論することだ。議論する相手はいなかったが探究したり妄想するのは得意なので自分の意見を混ぜつつ議論じみた文章を一人ながら拙く書いてみました。お題はもちろん、集中力に関連したワードにした。それではどうぞ。


テーマ「慣れる」



慣れるなんて言葉は一番嫌いな言葉だ。慣れるとはいい意味合いで使われることが多いがとんでもないと思う。
だって、慣れるって癖をつけさせるということだ。それも自然、不自然かんけいなく自分自身の勝手な理由でがむしゃらにやる行為に耐えかねた体が悲鳴を上げる代わりに神経を何本かぶっちぎって感覚を麻痺させるのが慣れるってこと。


小一時間、同じテーマについて議論するなんてとんでもない。
開始15分ですでに飽きが来る。飽きが来ない集中なんて不自然極まりないとぼくは思った。
しかしだ、同じこの日本に生まれた大多数の人々はその集中になれることを余儀なくされている。慣れることがたとえ、苦痛や苦しみであってもそれを人に押し付けるように巧妙な形でこどもに慣れることの大切さを学ばせる。毎朝、電車で不自然な格好で通勤してくるサラリーマンは集中力がある。
しかし、型にはまった人生であるがゆえに体の声も自然のささやきも目に見えない力もなにもかもを削ぎ落した骨ばかりの貧弱な人間性をぶら下げて規則というものにも集中することで自らを削ぎ落すことに必死だ。


なぜ、慣れることがこれほどまでに神格化されているのか、それは単純な話だ。
一番利益が出るから。馬鹿でも天才でも、同じことをひたすら高く積むことができれば物質的欲求は目に見えて満たされるからだ。


こどもはそんなことをしない。利益よりも個人的な気持ちだったりおもしろさを優先するはず。本能的欲求の1つである物欲は不自然な人間を大量に生んだ。それはつまり、慣れるという癖を生み出したことだ。


僕は言いたい。なぜ、利益ばかり求めるのだろうか。利益があっていままではそれでも足りないぐらい不幸や禍に人類は苦しんできたのは間違いない。しかし、これからはそういったことをしなくてもよい社会構造ができ始めるだろう。ぼくがもし、その過渡期にいるのならば、不幸でも幸せでもないから慣れるのは絶対におかしいと僕は思う。


しかしながら、その慣れるという行為は生きるという大前提があるときばかりは正当化されてしまう。生きるか死ぬかそんなことが当たり前の文明も歴史も浅かったころの人類諸君にとって手段を選んでいる暇はなかった。だから、慣れるという癖を身につけるだけで苦しい時代も高い集中力を得られる最適な術としていまもなお神格化されるぐらい便利に声高らかに慣れるための教育がまかり通っているわけだ。


だが、実際に科学技術や地球全体の文明が飛躍的に上がった近代、そして現代社会での慣れるという癖の手柄は大きいといってもよい。けど、待ってほしい。今は良くても、不自然なものはいつか淘汰される運命にある。それならば、個性やチャレンジ精神などが許容されて世の中がだんだんとおおらかになっていくなかで、利益ばかり追い求める姿勢は必ず衰退する。間違いなく、古い考え方になってくるだろう。


余裕のない時はなんでもかんでも慣れる戦略で良かった。しかし、先人たちのおかげでいまはもう余裕もあるし暇もある。個人が世界に羽ばたいて自由にしていい時代がやってくる。その中では利益中心社会はとりあえず、必要がないから必然的に消える。
べつに悪の根源ってわけじゃなくて、時代が移り変わるなら古いものは廃れていく。それが変化だし、進歩だと思う。これからは精神的に落ち着いた時代が来る。


人間は個の生き物じゃない。大勢でここまで成長できた感じ。それもずっと同じ集団が自分たちで細胞群体のように数を維持してきていまじゃ100億人くらいの群体になっている。殺しあったり憎み続けたりしているが、それでも群体としては順調に成長していると思う。


もしかしたら、人間の何人かはその群体を維持するための選ばれし素質のようなものがあってそいつらは人間同士を結合させたり、うまく富を分け合わせたりする役割を無意識のうちに行っていて、その中でも運命を操ったり、人間をコントロールできるすごいやつもいたりして。
案外そういう風に人間の感じている見えない力だったり偶然の出来事は説明がつくのだろうね。
もし、他の動物に自我があってそういう人間の営みや個のつながりを見たら本当に妙な生き物だなこいつら、と思われるだろうね。


それで、働かないことに対する言い訳になるかどうかは人次第だと思う。けど、やっぱり自分的にも詭弁にしか聞こえないと思う。だって、半分くらいは予測だろうし説得する気なんてさらさらない。打算的な態度は一切なしでぼくは自分の人生を生きる。


慣れるかどうか、いまは慣れたくないと思っているが、まんざらでもないじぶんも確かにいる。正直、事態が右に行くか左に行くかで判断が変わっちゃうからいまここで逡巡するのもやけくそになるのも意味がない。だから、どちらの意見も尊重したぼくにしかできないやり方でこの先を人生を判断して行こうと思っている。


以上、なまいきにも無職のたわごとでした。長くなりすみません。そして、羽生さんごめんなさい。

日を跨いだから新しい投稿。

沈黙は金だと言ったが、本当に役立つことわざ。
勝手に相手が誤解してくれちゃう上に支援までしてくれる。
余計なことはしゃべらないのが一番良い。


それはそうと、眠れない夜になった。いや、正確に言えばこれから寝れるのかもわからない。嵐の夜だ。風がゴーゴーとうなり、大地を滑っている。人はただ堅く扉を閉ざしてすぎるのを待つだけ。これほど居心地の良い夜はない。多少の物音も雨と風の音で遮られるだけだ。パソコンのタイピング音なんて聞こえる訳もない。


こう、ひたすらにただパソコンに向かうのも悪くない。自分が周りの人に心を閉ざしているときほど自分の中の考えが整頓される時間はない。しかも、この豪雨がなぜか心地いい。


誰もこの豪雨には逆らえまい。文句は言えまい。ただ、布団の中で耐え忍んでいる。
ぼくはどうだ。こんな雨でも深夜でも関係なく物思いにふけられる。なんて贅沢な行為だろう。普段はスズメのようにうるさい人たちもいない。すばらしい。


けども、ぼくは夜更かしとか暴飲暴食、性の乱れとかの不健康状態にとても敏感だからじっくりと孤独を楽しむには余裕がなさすぎる。今日だけの特別な時間なのだ。


人と意識して話さないとまるで言葉に気持ちが乗らなくなるから不思議だ。
どこまでいってもまるで遠慮というものが消える。言葉をかけるというより、言葉を入力して発している、そんな機械的な印象を受ける。周りの出来事さえ、自分はそのつながりを眺めているのにすぎず、ただただ人が動く、ものが無くなる、ものが増える・・・。そんな単純な世界に見えてくる。自閉症とまでは言わないけど、心を閉ざし周りと接しているとなにか人間らしい感情が消えてしまうんだなあと思った。僕の場合は不信感と諦め。こうするほうが自分の都合どおりにことを進められる。


僕は本来おしゃべりな性質ではないのだろう。よく一緒にいる母親のテンポにつられて次第に癖になっただけで、おしゃべりはあまり好きじゃない。
どちらかというと、赤ん坊のように好きな時に喋り、どうでもいいことは受け流すそんな自由気ままで自然体のコミュニケーションが僕には合っている。


心までは閉ざしていないのかもしれない。それだったらブログに赤裸々に自分の心のうちを開示するなんて恥ずかしいマネできる訳がない。
なんだろうな。よくわからない。


こういうはなしかたも今日が初めてだがなぜかやけにしっくりくる。
もしかしたら、いままで抑圧されていた本当の脳の使い方が沈黙をした拍子に覚醒したのだろうか。だとしたら、いままで喋っていた僕は偽物か。それが発する言葉に笑っていた者たちはいったいなんなのだろうか。


いや、深く考えても答えは出なそうだ。痛みの伴う思考ははっきりいって意味がない。
思考とは加熱するようでいて丁度の良い温度で湯船につかりながら歌を歌うような、心地よさがないと直観も思考も冴えないものだと思う。


怒りながら考えたり、悲しみながら考えたり、苦しみながら考えたり、そんな不自然な思考から生み出されるアイデアはまるで役に立たない。経験してきてわかった。


僕が偉そうに言うのも、そういうことで生きてきた人間は各局面で感情に振り回されていることが多い。その人が悪いんじゃなくて悪いように見せている思考方法が良くない。


瞬間湯沸かし器とか、老害だとか、精神疾患だとか、そういうレッテルを張られてしまう大人は痛みを伴う思考が癖になっているからよくない自分を演出してしまう原因になっている。
そして、そういう人は自分のそういう面に決して気づくことができないから、天罰を受けることになるわけです。


大人しい。おとな。親や先生とかに大人になりなさい。大人しくしなさい、と教育されるのが日本の教育でした。
自分を痛めつけてまでがちがちに固めた不自然な思考で大人しくなっているひとはたくさんいるんだな、と思う。
そういう人が就職していじめられたあげく、仕事の責任で死んでしまう。僕と変わらない同世代を見ていて思う。死んでしまっては元も子もない。そんな危機感すらもそいでしまう教育は僕が生きているうちに見直されるべきだと思う。


ごめんなさい。長くなりました。明日から更新するか明日の自分にまかせます。


棚に置いて言いますが、みなさんも身体のいうことを最優先に生きましょう。ぷー太郎は良くても不健康で大人しい人になってはいけませんよ。


ではおやすみなさい。

はじめまして。はやおだよ。

なんだろう。
別に書くことはそんなにないはずなのに必要以上にパソコンに向かっている。


メルカリやなんらかのことを辞めると宣言して次の菌床を見つけたにすぎないのだろうか。


ぼくはやりすぎてしまう癖があってもはや自分の勢いで大事なものを壊してしまう、そんな行き過ぎた情動がある。


これだと思ったら過剰に時間や労力を投資する。まさに徹底的な思いの爆発。
これはモノに当たるのと変わりないのではないか?ふと思った。


そもそも、当たるとは言葉にできない理解の網からすり抜けてしまった想い、それをどうにか受容しようと怖がったり焦ったりして暴力に走ったり気持ちの不快さをことばにして発散すること。


僕は昔からものにあたることは多かった。人にあたることはなかったのはよかった。
しかし、物を壊したりいらいらした感情を爆発させて泣き叫ぶ。当時は心の底でこれ疲れるから本当はやりたくないんだけどなあ…と変なところで冷静に当たっている自分も居た。


そう。当たるとは非常に疲れる行動だ。わけのわからない怒りと不安に追われて誰も近づかないように、自分の身を全方位から来るそういうよくわからないモノたちから守るんだから感覚も体力も使う。
そんなことをしてまでもぼくは自分を理解しない世間に対しても、己の力不足さに対して文句があった。


なんで、こんなに生きづらいのさ、と。賢者タイムのときにそう思うわけです。
こんなことをしてこれから楽しいことなんておこるわけもないんだ。僕なんか消えちまえ!


そんな経験が積み重なるとやがてそれは癖になってきちゃうの。
とりあえず、腹立たしいことがあったらものにあたる。最悪、人にあたる。


そうやって、自分の積んできた純粋な徳だったり、生来の性格がひん曲がって目も当てられなくなる。他の人もそれを見るのがつらいし、当人もきつい。死んじゃいたいくらいきついんだから、これ以上掘り下げようもなく。


まあ、いまとなっては狭い世界だったな、と思うが同時に腹立たしいと思う。
人は失敗したり成功したりそれが自分自身にとっての転機になると、変わったことをしたくなる。それが僕の場合はブログ。人に見てもらいたい。褒められたい。大事なことは続けることなんだと自分に言い聞かせて不特定多数の人たちに自分の気持ちを赤裸々にさらす。


こんなに晴れ晴れしく変わったことはそうそうないだろう。
ひとつ、たった一つの変化だがぼくは非常にうれしくてそれを知り合いに伝えるにはぼくはとてもじゃないが傲慢だから、沈黙を守るしかないわけ。
だから、黙りながらキーボードで打っている。


それってつまり、物にあたることと同じで、パソコンにあたっているんだよな。
書くということで今のどうにもならない気持ちをドカンとぶっ壊す。


なんだっけな。シャットダウンじゃなくてリセットする感じ。
そう、リセット。気持ちのリセットをするためのきわめて不自然な行為が今回みたいなものにあたるってこと。
ようするに、ぼくの頭が悪いんだよな。それが腹立たしい。


どうすればいいとか、考えるわけなのだがそんなにホイホイ思いつくとは思えない。
癖になったものはなかなか治らないから、みんな不安になって病む。
僕の場合病んでしまって動けなくなるのが嫌いだから、その癖の嫌な面を受け入れることから始めている。
コンプレックス自体は嫌だけど、泣いて暴れたって治らないんだからしょうがない。究極いえば死んだってしょうがない。それだけあきらめきって、感覚的に慣れてしまえばまずは当たるという破壊行動を抑制できる。そこから好きなことに打ち込んだり、前々から興味のあることを掘り進めたり、今の自分に確実にプラスになることをやる。


そうすると、答えがぽんとわかる日が来る。そん時の一連の行動の何が良かったのか研究して、それがサイクルとして理論化されたら人生は楽に生きられる。
脳みその忘れるって行為はこういうことに活かされるべきだ。
人間は死すらも忘れる生き物なんですから。


ぼくは自分のそういう面すら時間をかけて変化を見ていくのは当たり前だと思っている。
今日の独り言終わり。すみませんでした。