笑いって辛い時も笑えるんだから、すごいよな。

笑いって、追い詰められた時にもたくさん出るんだな。
色々約束したけど、無職だし、かねないし、それらを実行せしめる材料はない。
そんな、嫌でしょうがない時にぼくは笑ってしまった。


はじめて、嫌なことだらけの環境でほくそえみながら人と会話した。
ひねくれなのかそれとも正常にストレスを受け止めているのか。


しかし、なんだか慢性的にストレスを受けている状況なのになんだか頭も切れるし、いい緊張感が生まれているし、わくわくとするのは異常だなと思う。


突き抜けたストレスとかそういう雰囲気に押しつぶされちゃって、笑うしかないそんな状況に慣れようとしているのかな。どういうことなのか全く理解できない。


ぼくの知る苦労しているであろう人は話しを聞いてて引くくらい不幸自慢をする。そんな中でも笑っている。それはいったい、どういう感情なのかな。


死ぬ気スイッチが作動している状況なのかなあ。どうしても、やりたいことがあって、それでもそれが実現不可能な状態と自我が決めてしまって自分の意志では一歩も動けない。そんな状況下で死ぬ気スイッチが作動するんじゃないか。


頭では、心では、どうにもできない問題もなんもかんも潰されてしまえばもはや、半分適応したようなもんじゃないか?薄く潰されていてもそれでもその状況に存在できているし。


たしかに死ぬ気100%で毎日生きてても長生きはできないだとか、言われているものの、こういうこともできないやつが生きていける訳はないんじゃないかな。そもそも生きていく資格がない。生きていく道理もとおらない。それがさっきまでいた場所。


そういう風にとらえるのは少し都合がよいか。
ま、どのみちなにも達成できない癖に約束しちゃうんだからあり得ないぐらいのストレスをいま食らっているし、これからじわじわと追い詰められる。この毒がぼくは苦手だ。


不安や不満の形が分かっている方がまだ、ストレスの種類も違ってくる、的な単純な原理なんだろうか。それとも、未知の事柄を実行するにあたるストレスがよっぽどきついのか。


動物の進化とかとなんか関係がありそう。未知の進化という事柄は一日でできるもんでもないから数千年単位で変化してストレスをなくす。一方、死ぬ、餓死する、食われる、野垂れ死ぬ、そういう理由が明かに分かっている変化の方が適応が早くて済むし、身体はわかっていると思う。
ああ、これから死ぬわ。とか、餓死する話とか。それでそのあとの後処理とかも死ぬ寸前にドーパミンめちゃくちゃ出したりとか死んだあと分解される様子見るとさすがだなと思う。


けど、進化っていうのはめちゃくちゃコスト高いし、考えるのも足りないし、時間かけないと変化することができない。それって、単に未知ってだけだから。身体はそういうもんが一番破滅に近いってわかっているからストレスを出して緊急信号を出すけど、あるていど、未知に対して興味を持つとぎゃくにそのわからなさが魅力に見えてきたりする。
破滅から興味対象に格下げするから人は優位な気分になるし、身体もその警戒を解く。
興味って面白さなわけでどんなに追い詰められてる人間でもひどすぎる時は笑える。
クマに襲われていきながら食われるよりも、真っ暗な暗闇を眺める方が身体としてはおそろしいっていう場面はある。それは単純な道理で証明できるし。


つらすぎてつらさの底が全部嫌悪感で覆われるぐらい。そんくらいが逆に体を本気にするなにかが起こって、耐えられるっていうことじゃないかな。


おれはそれでも、働くことに関してはふれたくないし、見たくもない。いまだにおそろしい未知であることに変わりない。


さっきまではひどすぎる状況にすこし笑ってしまったが、いまは逆に笑えるほどひどくないから、てか約束をなかったことにして逃げればいいだけだ、と分かったからそうでもなただただじわじわと死ぬ気にもなれないある意味最悪の状態にいまなっている。遅行性の神経毒みたいなもんで性質が悪すぎる。じわじわってのに人間は弱いんだ。


ようするに、「つらいから働きたくないんだ。」じゃ、まだ、最低じゃない。


最低になるには働けないのに借金をするとか、働けないのに友達と遊ぶ約束をするだとか、それを破ったらやべーなというもんをいくつも常においておかないと死ぬ気スイッチが発動しないなと思う。別にやみくもにやれってんじゃないけど、そういうこともやれば働かざるを得なくなるんじゃないかと。


ぼくはいつになったら無職というレッテルから社会人というレッテルを張ることができるんだ。どうせなら笑いが止まらなくなってしまえばいい。笑

前回の記事ひどすぎ!!反省と心変わり

ほんと、へったくそなブログですみません。見てくれてなんか複雑。まあいいや。



突然ですが、最近、ぼくは読書に目覚めまして何冊か読ませてもらっていますけど生まれてほぼ初めて読書でほくそ笑むことができました。


活字で笑うってなかなか悪くないです。ちゃんと、場面ごとのその人の表情が不思議とわかるんですよね。なんでだろ。急に想像力が豊かになったのかな。1か月くらいしか読んでないけど。


まあ、それは置いといて、この前の自分の記事を数日ぶりに読んでみた。
絵をかくのは好きだけど、描くのは嫌いって記事なんだけど・・・、あれはひどい!


自分の立ち位置すらわかってもない凡才がなにを知った口をきいているのかと。今見ると意味不明でした。ちょっとなにいってるかわからない。


気持ちよく絵を描けないからむかついて原因を外に目を向けるしかない哀れこの上ない自分が数日前に実在していた。これは恥ずかしいですね。。


ぼくはうまくいかないとかんしゃくを起こすタイプで、どこにあてつけをすれば気が収まるか、そんなくだらないことを考えるのがいつものパターン。


しかし、今回は違った。本を読み始めてから妙に頭が整理された感じがするんです。
いつもの憤りが小さく感じる。なんか変だなあと思いました。


つまり今回の件、読書してたおかげで冷静に俯瞰できた。なんだこんなことかと。
極端な話ですけど、気づいたこととしてぼくは、前の自分がなんであんなにおしゃべりだったのか不思議に思うくらい余計なことを話さなくなってきました。いまは最低限必要なことしか話さないようになりました。
まあ、パソコン上では素の自分がこんなに出てきますが。


沈黙は金と思ったり、人の話をしっかり聞けるようになったり、何分も読書に集中していたりだとか、自分史上初めてのことがどんどん起こってきた。
本を読んだら頭がよくなる。そんな単純な仕掛けなんかなーと勘ぐりますが、やはり本を読んだことで私の脳がすこし賢くなった気がします。


イメージで説明させてもらうと、物事に対してそれを理性の投網で掴み取って、手で一個一個精査するようなすごく原始的なようで基本的なことが生まれて初めてできたなと。
苦しいことがまた一つ減った。


すみません。絵の話から大分脱線しましたね。
その記事を改めてみてから、ぼくは絵が描けない事実をなんか大きく勘違いしているな、と思いました。


絵が描けないのはひとのせいじゃない、そしてその解釈すらもなんか違う。
あれれ、つまりなにがなんだろう。で、わからなくてむかむかしてくる。


そこで勘がぴんと来まして、ある一冊の本をバーッと読みました。そこに、そういう気持ちを整頓する言葉が載っていまして、びっくりしました。うわ、これがデジャヴかと。(違います)


前にも載せましたが改めて紹介する。羽生善治棋士著 「直感力」です。


前、激安ジャンクショップの棚になぜか置いてあったのを買いました。(50円で)
我ながらすごく良い買い物をしたと思った。


前にこの本について生意気なこと言って墓穴を掘った思い出があります。慣れがどうとか集中力がどうとかちょっと反論、鼻くそレベルの論理はやはり墓穴なんだと思い知った。


この本はですね。羽生さんが棋士として長年将棋の世界で戦い続ける中で、自身の中で芽生えた「直感」という不思議な力を懇切丁寧に研究して考察したもの、そして、自身が現世で生きるための知識をまた懇切丁寧に書いたすごい教養本となっています。


ぼくのへったくそな説明ではわからないと思うのでPHP新書のホームページのリンクを張っておかないので自分で探して最初のページは無料で読むことができますので気になる方はぜひそうしてください。


それはともかくとして、本の内容はだいぶ論理的で本人にしかわからないような難しい表現もあるんですが、いっつもかっこつけて難しいことを考えているぼくにはこういう文章はよくわかりました。べつに羽生さんがかっこつけて難しく書いているわけじゃありません。ぼくは難しいなと感じたんです。


直感はぼくもなんか身に覚えがある気がします。次に、これが起こるだろうな、と何の脈略もない指令が来るんです。次の瞬間、ほんとにそんなことが起こる。うわ、なにこれ、と思うんですがそんなに驚かない。これが直感なんだと。直感とは身体はわかっちゃうんですね。むしろ、そこにびっくりだ。


で、その本の中でこんな言葉を見つけたので抜粋したい。文字の大きい部分がそう。


・・・かくいう私は実際のところ、結果に対する目標は、ほとんど立てない。ただ一つ思っていることは、少なくともいま自分が思い描いている物とは違う姿にはなっていたいということ。たとえば、十年たったらこういう感じになっているのだろうという青写真があるとしたら、その通りにはなりたくないという気持ちがある。


うお!?なんか、俺とおんなじことを思っている人がここにいたのか!ぼくは羽生さんに急に親近感と敬意を覚えた。さらに続けて載せる。


自分が想定した、その通りでは面白くない。自分自身、思うとおりにならないのが理想だ。
計画通りだとか、自分の構想通りだとか、ビジョン通りだとかいうことよりも、それを超えた意外性だとか偶然性、アクシデント、そういうあれこれの混濁したものを、併せ吞みながらてくてくと歩んでいくのがいちばんいい形ではないかと思っている。そうした自分から、その時々に浮かび上がってくるものを楽しみながら進んでいく。
「思い通りにならない自分を楽しむ」ことを、できる限り続けたいと思っている。



なるほど!ぼくはリビングのソファーの上で納得大音声を上げた。


ぼくの今回の問題の99割は自分が自分の苦労する姿を認められなかったせいであって、じつは苦労する自分を楽しむことが答えだった。


昔の僕だったら意味不明だと無残に切り捨てるような結論だが、羽生さんの説明の分かりやすさと親近感が理解を可能にした。
ようするに、結果に対する目標を持っていたことがぼくを盲目にしていたわけか。


絵がうまくなりたい、ああなりたい、けど、全然違う。。そんなイメージを心象にすること自体、間違っていた。
もっと自由に四苦八苦して、ふざけたり、そのうえで何か成り立ったり失敗したり、そんな原初の試行錯誤の楽しみをぼくは忘れて欲に駆られていたんか。。。
そんな感じで気づきを得たぼくはもう少し、苦しむことも楽しんでみたいと思えるようになろうと思った。


なんか、羽生さんのほうがぼくなんかより若い考え方でほんとうに心変わりするような本でした。羽生さんありがとうございます。
で、あとお勧めしたいのが棋士 羽生善治さん、雀士 桜井章一さんが対談する本がありまして、さらに直感について興味深いことが山盛りで書いてあります。話の深さで言ったら断然こっちの本の方もおすすめですね。よろしくお願いします。


ぼくはそのあともすごい発見をすることになるけど長くなりそうなのでここまで。
ここまで盛り上がってしまうとどうやって幕を引けばいいのかわからないが、おわり!

絵が好きなのに、描くのが苦手なの。

突然ですが、ぼくは絵を描くことが好きです。しかし、絵を描くことは苦手です。


一見矛盾してるけど、マジ。ぼくは絵を見たり、じぶんで書いてみようと思うところまでは好きなんだけど、そこからがなぜか苦行になってしまう。
好きな構図を写すのなんか指が震えて集中できないし。書き始めて30分もすれば頭がぼーっとして目がかすんでくる。確かに3年くらいは趣味でなんとか描いてきたのだが、こんなに描けないのは絶対自分のやり方がおかしいせいだと思っていた。


最近その思いが高まり、今日ふと思いついたことがあって試したら多分これだと思った。つまり、どういうことかというと、絵が描けない根本的な理由が分かったんです。
まず、集中力がないこと、そして絵をかくことに慣れていないこと、なんだ。


集中力かぁ。ぼくは世間で比較すれば通常の集中力は持っていると思われる。パソコンのキーボードを何時間も打ったり、ゲームもそれくらいなんなくできるから絵もそれくらいいけると思っていたがどうも、頭のことをよくわかっていなかったらしい。


パソコンと絵では出力という形では同じだろうけど、絵の方が多くの脳力を使用するのは絵の描く難しさを見て明らかなんだから文句はない。


ぼくはただ単に自分のレベル以上のことを何時間もやろうとするから身体がストップをかけていたに違いない。思い返してみればそんなに快適に絵をかけたことなんて一度か二度程度だし30分なんてとんでもなく、開始早々ダレルときだってあった。


なんというか、まだまだ自分は絵を描くには足りないものが多すぎる。ゴルフで初心者がマイナス点を獲得するぐらい難しいかもしれない。それでも、絵が好きでしょうがない。だから、無茶から始めてもいいかもしれない。


次に思うこと。そもそも絵を日常的に描いていないから慣れていないのは当然であるということだ。僕はこれにとても納得した。
僕がなぜ絵をかくことを日常化しないのか。それは僕は基本的にかっこいいものを好きになる傾向があってなかなか、絵描き、には興味がわかない。だから単純に、絵描き、になることが困難だった。
目指す心象がないってことは本当に何もないところに根性で居すわらなくちゃいけないから、とても精神的につかれるの。


で、なんで、絵描きがかっこよくないのか、別にかっこよくねえ!って言うほどでもないんだよ。だから、心象にならない。絵描きの印象なんて、天才すぎて誰も理解されない孤高の画家、だとか、ヲタクのイメージ。あの人たちの描いているイラストはめちゃくちゃうまいのだが、それらは動機がちょい不純すぎる。


僕が直面している絵の中の問題が2つあったとします。
一つ目は問題が前述したまだ絵をかくことに慣れていないということ、これはまだ解決方法が分かりやすいし、努力で何とかなる。
問題の二つ目はというと、絵、を描く「人」にまったくなりたいとは思っていない精神的な問題。だって、歌手なり、学者なり、絵師なり、それになりたいってだいたい形があればそこをつかんで登れるけど、僕の場合は絵そのものは好き。だけど、絵を描く人は何考えて絵を描いているのかよくわからんし別になりたくない。なんだろう。お手本がいないんだよな。
ぼくはお手本が居て初めて俺もやってみようってわかるそんなやつなんだなと書いていて気付く。


僕の知るすごい画家と言えば岡本太郎、アルバトール・ダリ、葛飾北斎、くらいしか思いつかない。みーんな歴史に名を残すような伝説ばかり。
けど、みんな死んじゃってるしお手本としてはその人となりを見聞きしてからああ、こういう人だったんだ、とリスペクトしたかったなあ。まあ、確かに資料や作品や著書を見るにかっこいい絵師だったのは間違いない。あんまり読んだことないけど。


みんな、パワーがあり絵を愛している。ダリも北斎も絵が好きでたまらないんだ。
岡本さんの場合それは絵だけではないんだが、ぼくは岡本さんの壁画や絵が特に好きなのだ。名前は忘れたが原爆で被爆する人たちをとてもおぼろげに崩してから、そこに感情で線を引いたような、非常に悲劇的な壁画が彼の作品にあったけど、ぼくは勝手ながらにその作品が岡村さんの全力だと思った。


明日への神話、という作品らしい。見るからに残酷な絵だが、僕はこの絵が好きだ!


そこまで、リスペクトしていながらなぜかそうなりたいとは思わない。なぜなら全員絵を描くことに命をかけすぎなのである。なんというか、もっと、、、、なんかないのかなあと思ってしまう。ぼくは絵が描きたい。けど、もとめているすがたはそれじゃないんだ。


もっと庶民的なところでいいんです。現代的なテーマを扱ったり、政治批判や精神世界の具現化なんて小難しいことはやりたくない。葛飾北斎は自然の小動物や山々、小川、人々の往来、幻獣画などたくさんの題材をまったく斬新な方法で写している。その情熱はいったいどこから来るのか、知りたいな。


いまはもう、本人が大昔に亡くなっているから話も聞けないがどこかにそういう資料はあるのだろうか。そういうものを探すのはなんだかドラマがあって楽しそうだな。とか思って今日はネットサーフィンを楽しもうと思う。まあこれからってことなのかな・・。


とまあ、僕の趣味はこんな感じで5割くらいは考えて作業が進まないんです。
長々とすみませんでした。。