独り言。職に就けない理由は自分にあるのか。

就職なんてこと半年前までは絶望的だったがなんとかここまで心の回復が進んだからまとめたい。もし、就職したいと頭でわかっているが動けない若い人がいるなら僕のパターンを参考にしてください。だいぶ文章に不純物が多いので自分で取り除いて使ってください。ぼくもいまだに無職ですが頑張ります。


・心から叶えたい目標があるからどんな仕事でも頑張れる。それが例え、戦争の場で戦うことでも、つまらない工場の仕事でもそれらその人の崇高な仕事になる。
・全力とは余裕を残すことだということ。


まず一つ目。
心から叶えたい目標があるから~という趣旨の文は戦争があった時の人々の暮らしぶりを見て思ったことだ。あの頃というのは仕事を選んでいる暇もなかったから、みんな国のためにお互いを監視しながら頑張っていた。それに誰一人として疑問を持たなかった。たとえ、戦争の戦地に行くことさえためらいもなく。そんなやばい時代でも、働くことが怖かった人はたくさんいると思う。


兵器工場の就労とか兵隊になるとか、そういう時代の流れを象徴する仕事は心の底から、わたしもやらなくてはいけない、と思わせる力があると思う。それは就職先がまともな理由じゃなくても作用するからろくでもないことになっても違和感を持たせないようにもする。


今の時代にみんなが自衛隊に入って軍隊決起しないのも時代の流れがそうはさせまいとぼくらに働きかけているのだ。
いや、そういう風に思わされているというのが正しい。だって、僕だってやろうと思えば1人でとんでもない悪行をできちゃうが、そうはしない。なぜなら、やる必要性が全くないのと、周りの環境を観察して自分が幸せだからそう思う。


だから、みんながみんなでつながっていると思うのは当然なんだ。物質的につながっているということじゃないけど、ただ人が居るだけでこちらはそれに沿った行動を選択して生きているから、精神的な作用で間接的につながっていることは間違いない。1人だったら、孤独で死んでしまう生き物なんだから。


前にも書いたことだが、人間という生き物は地球上に生息する群体性の生物だということがぼくの考えだ。
個人の死とは別に、群体性を維持して1つの個体として生き残っている。


それを裏付ける証拠ではないが、人類史には人間がそういう生き物なんじゃないかと疑ってしまうことがいくつもある。鉄器、農具、水耕、灌漑、などなど・・人類は発明することが本能に刻まれていて、生きるために物凄いものをたくさん作った。


上に書いたそれらの発明はほぼ同じ時代で世界で同時多発的に生まれてきたということ。明らかになにか仕掛けがあるに違いない。人間は精神的な面、物質的な面、のほかに何か妙な能力でたがいに作用しあっているんじゃないかとぼくは思っている。


戦争だって不況だって確かに死者を多く出した出来事はたくさんあるが、人類全体としては教訓として、記憶として、受け入れることで今までよりもしたたかに成長している。これはもう、人類群が一つの個体なんじゃないかと疑うのはしょうがないことだ。


しかも、いまはインターネットなんて仮想空間でつながれる手段だってあるから、いままでにない相互観察や見過ごしていたこともポンポン見つかると思う。将棋の世界ではAIが活躍してきて人間よりも数千倍の速さで強くなるそうで、そのAIの手をさらに人間が学習して異次元の強さになっている。人間は要らないんじゃないかと思うぐらいですが、そうなったら誰も楽しい世界を見れませんからね、そこは果敢に挑まなくてはいけない。


そんなこんなで集積された知識、思い、教訓なんかが、僕の言っていた妙な力の存在もこういうことでしたと証明される日は近いと思う。ぼくは人間の習性こそ研究対象として奥深いものを感じるし、みなさんは単純にスゲー面白いと思わないですか?


僕が働いてない理由に全くなっていませんが、いろいろアリになってくる世の中に迎合する自分をつくるためにそういうことも考えているわけであります。


二つ目。全力とは余裕を残す事。


これはあまりにも粗が多いし、なにしろそれが仕事とかで通じるかわからないから不十分だから書くか迷いましたがネタ的に書こうと思う。


あのね、よく全力で仕事に打ち込めとかいいますが、そんなん一時的にはできてもずっと100%でできる訳ないじゃない。たとえば、レジ打ちを例に出しますけど100%のレジ打ちとはひたすらにレジ打ちに打ち込むことだから脳の容量を全てそこに没頭させるんですよ。


お客さんは袋が必要なのかポイントカードは持っているのか、クレジットなのか現金なのかとか頭いっぱい全力でやっていて、突然、上司の方から○○くん!裏で商品の補充やってくれ!とかいわれて頭が真っ白になる。
え、え、どうしよう。とりあえず、今行けばいいのかな、でも、応援が来てないからここを動くわけにはいかないし・・とかマジでなんにもできなくなってパンクしちゃう。


それでお客様には怒鳴られるし、上司には小言を言われるし、非常にストレスがたまる。だけど、真にぼくが苦しんだのはそうなってしまう原因が分からなかったこと。


ずっと、その全力100%でやってきて毎回うまくいかなくておかしいなとはおもいつつ、全然対策が出てこない。うざいのなんの、もう脳みそ木端微塵ですよ。


でも、よくよく考えてみたんです。レジ打ちのように集中せざるを得ない状況でもリラックスしながら別のことを考える余裕のあることを毎日やっていることに気づいたんです。


それは僕がめっぽうはまっていたテレビゲームです。モンスターハンターというゲームをやっていたんです。このゲームはですね、自分が狩り人として現実にはいない魑魅魍魎のドラゴンや化け物を狩猟するっていう男の子なゲームなんです。ぼくはこのシリーズを小学生から熱心にプレイしてまして、だいぶ上手なわけです。
ゲームシステムも当時と差はないのでずっと経験者でできるわけだから、無職になってからもこのゲームをやるためにちょくちょく短期アルバイトみたいなことしてハードウェアを買って最近頻繁にやっています。


その中で明らかにこれは100%に近いプレイなのにぼくはなぜこんな高度な操作をしながら友達と話しながら会話の返しを考えたりいまみたいな考え事ができるのだろう、ふと思いました。


だって絶対、レジ打ちと接客よりも難しいことをやっているのにもかかわらず余裕がある。あれ、と思ったそのとき、ひらめきました。ぼくがいままでバイトや仕事で出していたものは全力じゃない、死力だったんだと。


単純な話です。全力とは本来すべての力を出し切ること。しかし、その力は集中することだけではないんです。集中力を持続させるのも全力のうちに入るんですよ。
だから、70%くらいは集中力に使って、残り30%の力は余分に取っておくことで不測の事態に備えておくということ。これが僕が思う、全力であると思います。僕が以前やっていたように死力を尽くすというのは一心不乱に戦う、というイメージでしてぼくはまさに鬼気迫る顔で仕事をしていたということ。だから、急に入ってくる仕事にはまるで対応できないのは当然のことだったというわけです。


あの、ここで勘違いしてほしくないのがぼくはしっかりこれらを認めていて、反省をしっかりしてから書いています。べつに、俺はこんなに不幸だったんだ、同情しろ、と思ってはいません。そこらへんは何となくわかっていてほしいです。


まあ、そういう気持ちも少しはありますが、やはり今回はもう少し余裕を持って働いた方がいいと気づけたことのうれしさが勝ちました。ぼくはこれからも前向きに就職を進めることが出来そうです。


まあ、まだ自分的には社会に漕ぎ出すための船が出来上がったとは思えません。もう少し、浮かぶように改良していきたいです。そんな感じでお願いします。


じゃあ、これからパラリンピックが始まるのでぜひ見ようと思います。
見てくれている方々、ありがとうございました。

お昼だから飯の話。

「牡蠣」


旬のものが食いたいなあ。この店の牡蠣のホットオイスターセットっておいしそうだ。


テレビでやっていたんだけど、焼きベーコン乗せ、カキフライ、ガーリックバター、の合計三種が大皿に乗ってたっぷり出てくる。どれから食べても絶対おいしいじゃん。


ただ、牡蠣は良い場所でとれた牡蠣以外はあんまり食いたくないな。というか、牡蠣自体海の浄化剤って呼ばれるくらい水をろ過して汚染物質とかを取り除いてくれる人間にとってはすごい役に立つものだってこと。
まあ、その効果に気づいたのはここ100年くらいだろうし、昔の人たちはその浄化作用のある濾過機を喜んで食ってたわけだ。まあ、スカベンジャーみたいな生き物ってのはたいていうまみがあって、生き物から狙われやすい。カニとかエビとかは何でも食うし。。。


でも、いろんなとこの牡蠣食ってからなんかすごいうまみのある牡蠣と痩せててあんまりおいしくない牡蠣が居るなあ、と気づいた人が居てそれをよくよく研究したらうわこいつ体内にすごい機能持ってんじゃん、って発見する。


それでも、一般の方の多くは味に興味があるっぽい。今日の人間の排水なんてどんなもん混ざっているかわかりませんが、それでもこういう一見無関係な生き物が頑張っているおかげで海はきれいなんだなと思うと、人間は昔っから助けられっぱなしなんだなあとしみじみします。自然の力はもともとうまく回るようにできている。


ただ、浄化場の洗浄能力も今はすごい。あるところでは浄化場の浄化性能が優秀すぎて排水中のリンとかケイ素とかの土壌に含まれていたり、生き物由来の栄養物質を全部濾過の時点で根こそぎとってしまった。するとどうなるか、浄化場周辺の生態系は大ダメージ。


水は透明度が高くてきれいなんだけど栄養成分の乏しい死の海になってしまう。それじゃ、漁師も困っちゃうからわざと水を汚くしてから海に流すようになった。
すると、また海藻がワーッと生えてきて、魚もどこからかまた住み着くようになった。浄化場の職員はとても残念そうにしていましたが、その光景を見てすこしは懲りたみたいです。


やっぱりね、生き物に対する配慮とかそういう痛い目を見るのは必要だと思う。じゃないと、どこで人類にとって有益な生き物が損をしているのかわからないしもっと反省していくべきだな。正しいことが自然にはまるで通用しない。偶然や目に見えないものの重要性をもっと知るべきですね。


しかしまあ、何であんなにうまいのか。牡蠣の美味しさを一言で表すなら凝縮、って言葉がしっくりきますね。今日の高級料理店の牡蠣は今世紀で一番うまいんでしょうね。いや、食べられる人がうらやましいなあ。。ソースをかけてもいいですが、タルタルソースやお塩なんかを振るのもまた、楽しみです。
スーパーに売っている牡蠣しかぼくは手が届きませんけど、出来立てはあのクリーミーな口どけといい感じのうまみが味わえますから、夕方17時とかにスーパーの惣菜コーナーで出来立てを手に入れてください。わりかし、うまいですよ。


そんなこんなでお昼時なんですが、無職なんでやることがない。困るけど、腹は減るから厄介なんです。はやくまともになりたいな。


とりあえず、牡蠣については以上。ありがとうございました。

墓穴掘るブログニート。文字通り。。

前回の文章は少し、書き足りない部分があった。ので、すこし、足す。


まず、集中状態に慣れること自体がどういうことなのかわかっていなかったかもしれない。
慣れるってつまりは自然な慣れと不自然な慣れがあるわけじゃん。
自然な集中はぼくもやっている。つまり、楽しいという感情とともにその行為に没頭する癖。これは比較的自然体な人はふつうに行っているやつ。つまり、良い方の慣れ。


この集中を鍛えて慣れれば仕事や勉強に応用できるというが、ぼくはやったことがない。集中とか没頭ってのはこれから何をするのかその物事への気持ちが強く影響してくるものだと思っているので正直試してもうまくいかないと思う。


ただ、羽生さんの言っていた集中の仕方は自分の集中と酷似していたし、その感覚を感じることもできた。それはおいおい考えが変わったら試してみたいな。


次に不自然な慣れ。これはネガティブな感情から生まれるある種応急的なものだと思う。
嫌なことを耐えているときとか、耐え難い苦しみから逃れようと何かに依存して結果その効果になれてしまうとか。言葉的に悪い方の慣れで、社会人はほぼ皆これ。


集中のダークゾーン。嫌だなと思っていてもそれにむかざるを得ないときについつい使ってしまう。その裏には、教え込まれた常識とか世界観があるから仕事なんかを簡単にやめたりできないことになっていて、それは別の話になってしまうんだけど。


癖というより悪癖ですね。これは、もし、いま自分が嫌な気持ちで毎日それでも仕事に集中するようになっていたら仕事なんか辞めた方がいい。
辞めて自分の好きなことにその集中力を使う。その方が、正しい自然体に後戻りしやすくなるし不自然な偽物なんかどっかいって、みるみる元気になっていく。会社で我慢しながら働くなんてもう古いんだから。
まあ、仕事が苦にならない方はとてもうらやましいですね。僕もそうでありたいが、どうもアレルギーがあるらしい。


まあ、まとめると人次第で慣れてしまった、慣れるようになった、とその評価が分かれるのも慣れることに明るい面と暗い面の両属性があるからなんですね。


それともうひとつ。なんでぼくがその両属性を持つ慣れるということが嫌いなのかということなんですが。
なんというか、自分でも俺慣れてんなーと思うシーンは日常でちらほら見られるわけですが、それでも他の集中に慣れている人を見て思うんですよ。
こいつ、すげー世界が狭いなって。なぜこんなにも凝り固まった日本語を使えるのかなと。そういう方々は特定の話題になるとその凝り固まった感じがにじみ出てくる。
世界が仕事や趣味だけで完結しすぎていてまるで奥行きも解放感もないことをいうんです。なんかこいつはやたらに自分の没入している世界の基準で話しているんだ。と、心底うんざりした気持ちでその人の話を聞くわけです。


実は僕も同じ経験を人にやっている可能性がある。それは得意のテレビゲームの時の話題の時ほどその気が出てくる。今思い出して気づいたが、これはお互い様なのかもなと。
これじゃ、今まで書いた慣れに関する僕の文章はまるで意味がなくなりましたね。。。


まあ、これほど墓穴を掘ったり、見直したりとその属性が白黒つけられないものだと分かった。ぼくも集中を鍛えて好きなことに応用する日が来るかもしれない。
そのときに人に対して慣れていない素の自分で話せるのか、という未知の課題がありますが、まあ、なんとかしたいなと思う。


今日はなんだか眠りたくないと体が言うもんですから、眠らないことにしました。
でも、これで正解でした。非常にためになる時間を得ることができました。
羽生さんの本への誤解が解けたところでそろそろ話を〆るとする。


というかね、パソコンで何時間も打てる時点で僕も相当慣れてます。ぼくはこのさき集中力についてもっと研究して仕事に応用できたらまた就職しようと思います。
では、みなさん、慣れすぎにはご注意を。さようなら。